戸川昌子さんの想い出

【愛すべき戸川昌子】その1


 銀巴里出演始めて間もなくの頃、確かマチネー(昼の部)が終わり、お客様から声を掛けられた。「井関さん、戸川昌子

さんの店“青い部屋”って行った事ある?」「いいえ」「じゃあ、これから行ってみるか!」と誘われ渋谷2丁目交差点角にあるシャンソニヱ“青い部屋”に足を踏み入れた。階段を降り、細い通路を少し歩くと、広い空間、キャパ70~80名程の客席、右側にはガラス張りの個室が一室、ほとんど壁からステージまで黒地に統一されており、舞台のホリゾントの真ん中には、大きなバラのオブジェ、そしてドキッ・・・・?天井から下がっている丸いランプのような明りには、女性のパンティー?が掛けられている。これが戸川昌子の趣味か?!

 

「いらっしゃいませ!」三つ揃いのスーツを着たスタッフが席へ案内してくれる。「ん・・・?!・・・・声が・・・?」

よく見ると胸が・・・!男装の麗人、店長は女性だった。目が慣れて来て立ち居振る舞いしている若いスタッフを観察すると、皆、男装の女性ばかり、キョロキョロしていると、戸川昌子さんが微笑を作り歩いて来る「あーら、いらっしゃい、井関ちゃん、初めて?」「えっ?はい!」

 

 銀巴里で戸川昌子さんの前を何度か演らせて頂いているので、すでに名前は覚えてくれていた。

 

「銀巴里の帰りに寄らせて頂きました」「そう、じゃあ、譜面あるわね、一曲歌って行きなさいよ」「あっ、はい!」これが実はオーディションだったのだろう。

 

 店の中は出演者と云っても、おはこびもしながら歌っている歌い手さん(昔のシャンソニヱは、小生もそうであったが、若いうちはそのスタッフとして、飲み物等運びながら歌っていた)が4~5名、ピアニストそして戸川さんの姉の鈴木康子さんが、実質“青い部屋”を仕切り、運営していた。

 

 客は戸川昌子の歌と生きざま、話しを楽しみに夜な夜な吸い寄せられるように“青い部屋”に勤しみ通った。

 

「井関ちゃん、あんたうちで歌ってくれない?」「ハイ!」昌子オーナーの一声で小生の出演が決まり、ここから「おっかさん」「井関ちゃん」と長い長い、まさことまさとの音楽道中、珍道中が始まったのである。つづく

 

 

【愛すべき戸川昌子】その2


 東京大空襲の中、戸川昌子は母親と戦火の中逃げ廻り、父と兄を亡くし、防空壕の中では死へ旅立つ人を看取ったりしたと話してくれた事があった。戦後生まれの私としては、祖父母や母にその体験を聞かせれたりもしたが、子供の頃に聞かせれた話より戸川さんの実体験の話の方がリアルに胸に心に残る話であった。

 

 戸川昌子、1931年3月23日東京市に生まれる。

高校中退後、伊藤忠商事の英文タイピストの職につく。1957年シャンンソンの殿堂、銀巴里の素人飛び入り企画で歌った所、丸山明宏(現、美輪明宏)が、バンマスにレギュラーに入れようと進言、こうしてシャンンソン歌手、戸川昌子が誕生!!

 

 銀巴里出演の合間に1962年、楽屋で長編小説を書き上げた作品「大いなる幻影」が第8回江戸川乱歩賞を授賞、女流作家と

して大いに注目される。翌年、1963年に発表した「猟人日記」が直木賞候補となる。

 

 同時期に銀巴里オーディションで入った、作家仲間の野坂昭如氏はその後「黒の舟歌」でヒットを飛ばしたが、芸名をクロード野坂と名乗っていた。何故“クロード”にしたのかと聞かれ、野坂氏「俺は素人じゃない、玄人だから、だからクロード野坂だ」と云ったとか、云わなかったとか?これも戸川さんから伺った話しだ!

 

 作家としての戸川昌子さん、多数の作品があるが、私は、歌手、戸川昌子としての人となり、付き合い大先輩なので、その出逢い、飲み、語らい、旅、生きざま、本音等紹介して行こうと思う。

 

 私が銀巴里に入ったのが1974年(昭和49年)春、その頃から戸川さんと組まされ、前を歌わせて頂いた。銀巴里は年齢に関係なく最初は入った順に卵子、ヒヨコ、小鳥、大鳥の順に2曲づつ歌を披露して行くのだが、私と戸川さんはよくマネージャーに叱られた「お二人共、もう少し話しを短くして下さい!!」流石に私は「はい!すみません」と頭を下げるのだが、おっかさん否、戸川さんは何処吹く風、柳と受け流し、右から左へ・・・マイペース、自分のスタイルを絶対に壊さずステージに上がっていた。 つづく

 

 

【愛すべき戸川昌子】その3


 良く馬が合うと云う言葉があるが、戸川さん、この大先輩とはいつも自然体で居られた。「おっかさん!」「あいよ!だけどあたいはあんたを産んだ覚えはない!」こんな減らず口は、淡谷のり子、深緑夏代さんに云える事ではない。この御両者共終生“淡谷先生、深緑先生”だった。直、淡谷先生は、楽屋等で二人っきり?になると「まさとちゃん」「のりちゃん」だった。

 

 戸川昌子の店 “青い部屋” へ出演始めて間もなく、小顔でスラッとした男性が舞台に向かって、あの右側のガラス張りの個室で静かにワインを飲りながら、我々の歌を聴いてくれる日が時々あった。「まさと、あの人、わたしの彼氏、結婚したのよ」「そうですか、おめでとうございます」私もご主人に紹介され、ご挨拶させて頂いた・・・。

「私、できちゃった」「えっ・・・?」「子供よ、産むわ!」「それはよした方がいいと思いますよ」「何、云ってんだい、私の勝手だろう。」まるで私が夫のような会話だが、こんな事まで私には昌子大姉御は打ち明けてくれた。私が何故反対したかと云うと、私が一才の頃に両親が離婚した事で、私は母一人、子一人で育った。もっとも祖父母と一緒だったが、もし祖父母が居なかったら、どんな生活を送っていただろうか、振り返ると多分、まったくちがう世界の人間になっていただろう。

 

 その頃の戸川昌子と来たら、文壇でも、シャンンソンの世界でも執筆に追われ、ライブに、旅公演、講演と八面六臂の忙しさで、もし子供を産んだら、子育出来るのか、この人は絶対に仕事を取るだろうと思ったからだ。

 

 出産した!私よりも16才も上の大姉御が高齢出産、無事男児を産んだ。マスコミも「高齢出産・・・」と喧まびしく報道していた。しかし、この幸せも長く続かなかった。間もなく御主人と離婚。私には推しはかる事は出来ないが、戸川さん御自身の中では大変な葛藤があっただろう。でも、この大姉御は、決めたら切り替えが速かった。

 

 客やスタッフ、我々後輩の前では、まるで何事も無かったように、明るく振る舞い、あの独特のまさこ節を振り撤きながら、客の拍手に愛されながら、ステージを降りるとバンルージュ(紅ワイン)を旨そうに飲り、日毎、夜毎、精一杯の人生を送る、まるでジャンヌダルクのような人だった。 つづく

 

 

【愛すべき戸川昌子】その4


 シャイな女(ひと)だった。本当は少々気が弱く他人(ひと)に対しても優しい心根の持主だったが、自分の弱さを見せまいと、わざと下世話な物云いで、しゃべったり、青い部屋(店)の中で客とのトラブル等があると、啖呵を切って客を撃退したりもした。そんな時、私は自分の母親と彼女をオーバーラップ、重ね合わせたものだ。母も本当は気はあまり強くないくせに理不尽な事や客とのトラブルでは男勝りの態度で筋を通す女(ひと)で、そんな所、戸川さんとよく似ていた。だから自然と“おっかさん”と大先輩に対してそんな口をきけたのかもしれない。また戸川さんも“あいよ”とすぐ木霊のように返してくれ、そんな和気合々の中でライブや旅公演、日本中を行脚したものだった。

 

 1984~85年当り、私が30代に入った頃、第2のシャンンソンブームが再びやって来てライブハウスだけでなく、全国各地からお声がかかった、例えば。石井好子さんがプロデュースした、地下鉄赤坂見附駅の駅ビル“ベルビー赤坂”では特設のステージを作り“ベルビーミュージックプレゼント”と題し、しばらくコンサートをつづけ、石井好子、戸川昌子さん等と私もお声を掛けて頂き出演、また“パリ祭”とは別に“シャンンソン・フェスティバル”と名打って、群馬音楽センター、長野市民会館、仙台電力ホール等、各地からお声が掛かり、淡谷のり子、深緑夏代、芦野宏、石井好子、戸川昌子、中原美沙緒さん等、大先輩の方々と御一緒させて頂き、末席に居させて頂いた。

 この頃、岸洋子さんの店、原宿表参道、明治通りにあった“バローン”にもレギュラー出演していた事も有り、岸洋子さんの前唄として日本各地を廻り、私にとっては、大先輩の方々の芸を間近に拝聴体験出来、大変な勉強にもなり、貴重な時代だった

 

 1985年3月8日(金)都民芸術フェスティバル“第16回都民のためのコンサート”という企画があり、何と!その中の一日、私のリサイタルはどうかと云うお話を頂いた。フェスティバルは約一週間程つづくのだが、期間中の一日を私にワンマンリサイタルはどうかと千葉県民の小生に都から出演依頼を頂いた訳けだ。そこで早速ゲストも入って頂いて良いかと伺ったら、OK!すぐにおっかさんに打診「お前となら出るよ!」と二つ返事で戸川さんから快諾!!こうして「シャンンソンコンサート・春にうたうふたり」“陽だまりと影と”という、二人のコンサートを有楽町の“よみうりホール”で開催した。

 しかし、あれだけ張り切って快諾してくれた戸川昌子が・・・・。  つづく

 

 

【愛すべき戸川昌子】その5


 「都民芸術フェスティバル」本番当日、戸川昌子に元気がない、落ちつきがない。

 「どうしたんですか?」「うん・・・・!?」 マネージャーの安達さんも楽屋に居ない。

 「安達さんは?」「・・・・。」

やがてマネージャーが大きな模造紙を買って戻って来た。

 「先生、買って来ましたよ」「・・・・」

 「それどうするんですか?」「・・・・」

やがて沈み込んでいた戸川さんが重い口を開く。

 「歌詞帳持って来て」「おっかさん、どうするの?」

 「これに歌詞書いてステージに貼るんだよ。」「何で?」

 「だって歌詞忘れそうだもの・・・」

私は大変失礼とは思ったが、小生に弱味を平気で見せる大先輩につい笑ってしまった。

 「まちがえたらいつものまさこ節でラララ・・・にすればいいじゃないですか」

 「そうは行かないよ、あんたの顔 潰す訳けにもいかないし、東京都の主催だろう!!」

 「大丈夫ですよ、ステージに模造紙貼りつけて、見ながら歌う方が、かっこ悪いですよ」

 「そうかい・・・」「ええっ!」「それじゃ 一杯飲っていいかい?」「一杯ネ!どうぞ!!」

 

何の事はない、リハーサル前から歌詞の不安を抱えて沈んでいたのである。さあ本番、私は心配してはいなかった。デュエットの部分もゲストソロの部分も、いつもの昌子節で客を沸かせ、自分の世界に引きずり込んで行く、おっかあ・まさこは、やはり芸人愛する、尊敬する大先輩である。客席は笑いの渦の中に包まれていた。

 無事ショーも幕が降り、都の方々から、笑顔のご挨拶を頂き、戸川さんにも感謝しつつ、大きな仕事をクリアー出来ホッと安堵し満足感を覚えた一日だった。

 

 話しが前後するが、その頃の青い部屋は、年一回「戸川昌子一座」と名打って、芝居やミュージカル仕立てのショーを開いていて83年の青い部屋パリ祭は、本格的な芝居「シラノ・ド・ベルジュラック」(作、演出 渡辺泰治)を取り上げ、3日間

の公演を行なった。

何と主役のシラノを小生が座長戸川昌子から仰せつかり、まるで役者をかじっていた頃に、戻ったように、他の歌い手や外から参加した役者さん等と、稽古稽古の毎日、一時間半の芝居は、長台詞が多く、今なら到底覚えられない台詞の量だった。

 70名程のキャパシティーに連日満席のお客様、立見まで出て、あの大女優 山口淑子(李紅蘭)さんは二日間通って下さったり、今振り返れば「戸川昌子一座」懐しい想い出である。 つづく

 

 

【愛すべき戸川昌子】その6


 福井県和泉村(現大野市)の商工会青年部の方々と知己を得、1988年8月8日8時8分「サンソンでしゃんんそん」シャンソン村宣言、開村式を行なった。(因みに、北京オリンピックは2008.8.8.8.8)

 

 前年、その頃六本木にあった歌手の松原ルリ子さんが経営していた、シャンソニヱ「ピエロ」に和泉村商工会青年部の方々が、東京に遊びに来て、ピエロでのショーを聴き「シャンソンはおもしろい!是非うちの村へ来て頂き、シャンソンで村おこしをしたい。」と小生に話し掛けて来た。最初はおことわりしたのだが、竹下総理が打ち出した、一億創成のその助成金が和泉村にも助成されたので運営は出来ると懇願され、松原、成美さん、ピアニストと私の四人で九頭竜川を左に見、緑のトンネルを抜けると、右に清流を観ながら山深い和泉村にお邪魔した。

 

 過疎化が進んだ村は、全人口が800名程、高齢化も進み、失礼ながらこの様な山奥の村に客が来るのかと心配の連続だった。トレーニングセンター、村の唯一の大きな会場、そこが第1回「サンソンでしゃんそん」の会場でもあった。フタを開けてびっくり、客席は満席ほぼ400名程、村民、近隣からもマイカーや登山電車のような越美北線で来村、小生の心配など何処かへ吹き飛んだ!!

 

 今度は次の心配、構成、演出を担当した小生としては、はたして客席の人々がシャンソンを楽しんでくれるのか・・・・。一部が終り二部、女性歌手が歌っている時、そっと客席の後方に降り、その曲間に交わされる、客のヒソヒソ話しを聴くと、皆一様に「シャンソンはおもしれえなぁ~」「シャンソンってなんだぁ~」「お芝居のようで楽しいなぁ~」と皆喜んでくれていた。終演後、客を送り出しに出口でお礼をのべる我々出演者、商工会、村役場のスタッフ皆に投げ掛けられた言葉が「いやぁ~楽しかったぁ~」「感激したでぇ~」と皆ニコニコ顔で会場を後にしてくれた。

 

 打上げは当然大いに盛り上がり、会長の長崎吉久氏も御満悦で「井関さん このコンサート是非続けて下さい。」と云って下さった。「井関さん!シャンソン界の大将って誰だぁ~」~~福井弁は、語尾がずり上って来るのだ!!

 

「大将という人は居ないが  “パリ祭”  等を主催しているのが、石井好子さんという歌手でプロデューサーが居らっしゃいますよ」「そう じゃその人 呼べぇ~」

 おいおい、簡単に云うなよ! それからが大変、件の石井好子さんにこの話を持って行ったのだが・・・・・。 つづく

 

 

【愛すべき戸川昌子】その7


 “サンソンでしゃんそん”

 何故か山村がカタカナでシャンソンが平仮名なのか?

第一回コンサートを開く前、村役場の女性職員にチラシのデザインをお願いしていたのだが・・・・。商工会のみなさんと打合わせしていた時、その女性職員のスタッフが下がり眉で入って来て「井関さん、すみません、さんそんをカタカナでシャンソンを平仮名でまちがって印刷してしまいました、どうしょう・・・・・。」

「・・・・・・・、いいじゃないかぁ~おもしろい!これで行こう!!」彼女をなぐさめる為に云ったのではなく、このミスが逆に新鮮なネーミングになったと、私は思ったのだ。他のスタッフの皆さんも賛成してくれ、確して「サンソンでしゃんそん」と名打って、シャンソン村コンサートがスタートしたのである。

 

 石井好子さんに“サンソンでしゃんそん”のゲストとして出演のお願いをしたのだが、あまり良い返事は頂けなかった。しかしここが真人の真骨頂、粘りに粘って、ついにご承諾を頂いた。「その山のコンサートの前日、私、京都でコンサート演っているのよ、どうしたらいいの?」「先生、湖西線の特急に乗って頂いて、福井駅で降りて下さい。スタッフがお迎えに上がります!!」

 良かった、石井好子さん、3曲歌って下さる約束を取り付けて、すぐ商工会に連絡。「今、石井好子さんからご出演の約束頂いた!!」数日後、構成台本を書き上げ、村に送り、商工会のスタッフに指示、お願いをした。

 

「下の大野市から、照明、音響の機材とそのスタッフを借りて、前日会場にセッティングして欲しい、それから幅1m位の緋毛氈を30m位買っといて下さい。」照明、音響は皆、当然理解出来ないと思うが、何故、緋毛氈なのかと戸惑ったと思う。

 

 本番前日、和泉村へ若手出演者の皆さんと入村し、会場に照明、音響をスタッフに指示、セッティング、そして舞台から客席に緋毛氈の紅い道を作った。

 

 石井好子さんが少々お疲れ気味の顔で来村、その足で会場まで御案内した。

「あら?! 照明音響揃っているじゃない!」「はい!」

「この緋毛氈は?」

そこで小生、台本を石井さんに見せ「ゲストコーナーで先生に客席から歌いながら この緋毛氈の道を歩き舞台へ上って頂こうと思いまして・・・」「・・・・、井関さん!」「はい!」「曲目増やしてもいい?」「はい!」「7曲にします!」心の中で万歳をした!! それからリハーサルが始まる一時間程の間に、台本を特急で書き直し、役場の女性スタッフにワープロを打ってもらった。

 

 コンサートは大成功、800名程も入って会場は沸きに沸いて、石井好子さんも大変気元良く、その夜の打ち上げは笑いとワインと降るような大きな星空の下、余韻が木霊のように続いた。

 

 石井好子さんの一声であとのコンサートがスムーズに進むようになり感謝。

 

そして、次のゲストが我がおっかさん!戸川昌子さんなのである。  つづく

 

 

【愛すべき戸川昌子】その8


 福井県和泉村の村おこしコンサート「サンソンでしゃんそん」は、四季折々、亜鉛産出日本一の鉱山 “中竜鉱山” の古映画館、やはり日本一のロックフィルダム “九頭竜湖ダム” の石垣広場、中竜スキー場のヒュッテ、九頭竜湖駅前広場等、色々な場所、施設で行われた。

 

 村から九頭竜ダムを越し、さらに奥へ、福井県と岐阜県の県境に在る、ロッヂ休憩所の “青葉の笛” でのコンサートに向かう我々を乗せたバスに容赦なくは白魔が襲いかかる。舞い上がる風と雪で、視界は完全なホワイトアウト状態。

 

 「ねえ、大丈夫?運転手さん!崖に落ちないよう運転してよ!」

「もう少しスピード落としてっ!」

さっきから一人運転手にクレームをつけている女性、そう おっかさん、戸川昌子さんである。

「前が見えないのに、よくあんた、運転できるわね!」

「私たちを湖に落とさないでよ・・・ねえ、大丈夫?!」

 我々歌い手もバンドトリオも静かにしているのに、一人しゃべりつづける、おっかさんであった。土地の人は何処にカーブが、坂があるか、全て熟知しているのに・・・。

 

 そう云えば、戸川さんと母が似ている所もう一つ!二人共飛行機に乗った事がない。共通語「あんな鉄の固まりが、何故空を飛ぶの、地面に足が着いていないのは嫌だ嫌だ、絶対乗らない!」二人共、まったく同じ台詞を吐き、小生想い出して苦笑した。

 

 戸川さん、網走刑務所に慰問講演に行った事が有った。何と二日間掛けて、新幹線とローカル線を乗り継いで現地へ、飛行機なら2~3時間で行ける所を、本人もマネージャーも、へとへとになって帰って来たと話してくれた事があった。

 

 今回の「サンソンでしゃんそん」は “かまくら祭” と題して、前日、村のスキー場で松明滑走のオープニング、そしてスキーロッヂでの “戸川昌子を迎えて” ディナーショー、翌日が “青葉の笛” での80名程のミニコンサート。

 

 歌い出した戸川昌子はまるで別人!バスの中での不安顔および腰、情けない声がウソのように、いつものまさこ節で楽しませ、笑わせ、一緒に歌い、とに角その客を前にした時のサービス精神には学ばせて頂くことく事が多く、私も観客の一人となり、その芸に心も身も、まさこワールドに引きづり込まれ、弄ばれ、楽しんだ冬山の「サンソンでしゃんそん」コンサートであった。 つづく

 

 

【愛すべき戸川昌子】その9


 「夏祭り、サンソンでしゃんそん」は、ゲストに石井好子さん、戸川昌子さんのお二人を迎え、あと若手歌手といつもより大勢の出演者によるコンサートを開かせて頂いた。

 

 県外、村外そして地元のお客様で超満員の800名以上、会場のトレーニングセンターは人人人でお客様が外まで溢れていた。一部のトリは戸川昌子、二部の大トリは石井好子 そしてフィナーレという構成台本を書き上げ始まった「夏祭り、サンソンでしゃんそん」コンサート、客席と一体となり、我々歌う手もバンドも大ノリ大盛り上がり!下の大野市から来てくれている照明、音響さんも、もうこのコンサートに慣れて、大変良い色使い、音作りをしてくれ、歌い手だってノラない訳がない。

 

 計算通りの時間で一部のトリ、おっかさん登場!戸川昌子が舞台に姿を現しただけで、客席は「待ってました!!」大拍手の渦、件のおっかさん、ノラないわけがない、のっけからしゃべりにしゃべりまくった。そして予定の持ちを時間を20分以上オーバー、このまゝ休憩をとり、二部を演ったら、確実に電車で来村したお客様は下の大野、福井まで帰れない、最終電車は出てしまう。

「真人君!私はもう今日は歌わないから!!」

「えっ!先生すみません、何とかしますから」

「戸川がこんなに延び延びにしちゃったら、最終電車が出ちゃうってスタッフが云ってるわよ」

「わかりました、何とかしますから先生ちょっと待って下さい!」

石井好子さんが怒る怒る怒るまい事が・・・・。

 

 気持ちよく舞台上に居る戸川さんにマキを入れつゝ、青年部のスタッフに、このままじゃ最終電車に間に合わない、駅長に掛け合って欲しいと指示、そして30分の休憩を15分にしてくれと伝達!

 

「でも、トイレ時間、お客様間に合うでしょうか?」「仕方がない休憩15分!!」出演者、スタッフに伝えた。

 

駅に行ってくれた若いスタッフが帰って来て「駅長がそんな事情なら何とか5分最終電車待ちましょうと言ってくれました!」「よし!何とかなる。」

件のおっかさん戸川昌子は自分のステージ大ウケに上機嫌で旨そうに煙草をくゆらせていた。  つづく

 

 

【愛すべき戸川昌子】その10


 和泉村(シャンソン村)のさらに奥には、上穴馬、下穴馬という二村が存在したが九頭竜湖ダム建設の為、二村はその湖底に沈んだ。しかし、その名残りが夏の盆踊り「穴馬踊り」として残っており、村民の大切な行事、楽しみの一つになっている

 

 昨日のコンサートも九頭竜湖駅、駅長の窮余の計らいで、また休憩時間の短縮により、何とか無事お客様は終電に間に合い、石井好子さんも曲数減らさずに歌いきり、もちろん石井さんも大ウケ、溜飲を下げ、破顔で幕を降ろす事が出来た。打ち上げはワイン、ビール、焼酎、何でも有り、プチホテル “パパママ” の女将の心づくしの美味しい料理等で、星降る山間の村にいつまでも笑い声が響いていた。

 

 さて、翌日が前述した盆踊り「穴馬踊り」当日!今回はコンサートを含め、3日間の予定を組み、石井、戸川さん、若手歌い手、バンドにも来て頂いていたので、前日の大いなる余韻の中、石井好子さんも戸川さんもリラックスし、おっかさんなどは和泉村周辺でしか取れない “アジメドジョウ”(清流にしか住まない泥鰌科)の唐揚を肴に飲っていた。(何回目かのゲストで来て頂いた、平野レミさんなんか旨い旨いと云って、山葵葉の甘酢漬けと一緒に持ち帰った程だ)

 

 穴馬踊りとは、この山深い山間の村から若い女子が男子が余所へ、村から離れて行くと、益々過疎化が進む、それを止める為、村独特の不文律、風習が生まれた。それは特に若い女子に村から出て行かないよう、その盆踊りの日に限り、男性が女性の親公認で、女性に愛を打ちあけ、恋を成就出来るという、ただの夏を送る季節の祭りではなく、意味のある一夜でもあったのである。

 

「まさと!」「はい!」「穴馬踊りって、ちょっと・・・・艶気の有る踊りのようだね?」「そうですよ~~~!この盆踊りはねえ、村の男性が女性の親公認で女性にラブモーションを掛けて良い祭りなんですよ!!」「えっ!本当かい!!じゃあお姉ちゃん(石井好子さんの事)も、あたいもその権利あるのかい?」「もちろんですよ!」まあ酒も入り上機嫌の戸川さん、その上気した顔が緩むこと・・・・。

 

 盆踊りの会場は“シャンンソン村開村式”を行なった、九頭竜湖駅前広場、西日が荒島岳に傾き始めた頃から、村民も、昨日コンサートに来村してくれた大野や福井、金沢からのお客様もまた登って来てくれ、FBC(福井放送)のクルーも昨日のコンサート同様、取材に訪れ、祭りは始まる前からすでに盛り上がりを見せていた。 つづく

 

 

【愛すべき戸川昌子】その11


 二人の熟女が踊っている。上下白のブラウスとパンツ姿、穴馬踊りも佳境に入り、参加者も観客も過ぎ行く夏を惜しみながら、晩夏を情熱の色に染め、楽しみ踊っている。二人の白装束の女性は、一際目立ち、廻りは少し距離をおいている。二人の熟女はきっと心の中で乙女に返り、声を掛けてくれる男性を心待ちにしていたと思う?が、皆、遠巻きに有名人を、チラッチラッと横眼で見るだけで、祭りの灯が消えるまでアタックする男性は現れなかった・・・。

 

 和泉村(シャンンソン村)の「シャンソンでしゃんそん」のイヴェントも、和泉村が大野市と合併するまでの18年間も続いた。この間に御出演頂いたゲストは、石井好子、戸川昌子、岸洋子、雪村いづみ、夏木マリ、平野レミ、山本リンダさん他、若手の歌い手も多数、そしてミュージシャンの皆さん、大野市から毎回来村、舞台を創ってくれた、照明、音響のスタッフ、FBC(福井放送)のクルーの尽力、その頃、村長を務めていた池尾さんが、全国市町村会議に出席「和泉村の池尾です」と挨拶すると「おう、シャンソン村の・・・・」とまで云われるようになったとニコニコ話してくれた。

 そして、何よりも最大の力は、村民の村を揚げてのそれこそおもてなしの心、会長の長崎吉久さんはじめ、和泉村商工会青年部の皆さんの “村を何とかせねば、過疎化を何とかせねば” の強烈な志だった。

 

 戸川昌子さんと二人で話す機会が多くあったが「井関ちゃん、和泉村は、春夏秋冬お邪魔したけど、人が素朴で温ったか、山々自然が、緑も水も空気も旨く、そして、星が大きくてさ、そんな中で楽しい仕事をさせて頂いた!」と想い出を語ってくれた。

 私も微力ながら、18年間お手伝い出来、人生の日記に忘れられない記憶として残って行く「サンソンでしゃんそん」であった。

 

 この間に36年間、シャンソンの殿堂として君臨していた “銀巴里” が、その歴史の幕を降ろした。閉店する三ヶ月程前からは、クローズを惜しむ客が、日毎、夜毎、長蛇の列、我々出演者は、こんなに来て下さるのなら、まだ続けられるのでは・・・・と、皆心の底で思っていたが1990年12月、その歴史に終止符が打たれた。

 

 銀巴里がデビューとなった、我らがおっかさん、戸川昌子さんの嘆きは一様でなく「よし!あたしが銀巴里の意志を継ぐ!!」と云って、青い部屋の月曜日を “銀巴里アワー” 月曜シャンソンコンサート(この日だけは銀巴里料金)と題して、

リーズナブルな料金で、ライブを始めた!  つづく

 

 

【愛すべき戸川昌子】その12


〔銀巴里アワー、月曜シャンソンコンサート〕は、料金がリーズナブルな事も有り、若い客も足を運んでくれ、新しい客層の獲得にも貢献した。歌手、作家、経営者、母と、何役もこなして来た戸川昌子も、年齢を重ねて行くうちに、その身体にも狂いが出始め、体調を少しづつ崩し、彼女の身体の各部分が悲鳴を上げ始めていた。痛み止めの薬を飲み飲み、疲れと痛みを忘れる為に、酒に頼る日が増え、青い部屋へ顔を見せない日が増えて行った。

 

 そのような状態でありながら、私と秋田公演、東京駅へ着くとその足で一緒に名古屋へと、新幹線を乗り継ぎ旅をしたり、その間に執筆、講演と自身の身体を酷使しながら、気力を振り絞りアクトしていた。

 

 戸川昌子の館「青い部屋」もクローズする時が来た。このライブハウスで育ち巣立って行った歌い手は多勢いたし、今、その歌手達が皆活躍している。

 

 全身の痛みを噯(おくび)にも出さず、舞台に立つおっかさんを見ていると、私の胸もつらく痛んだ。2015年11月、箱根のホテルでの私のディナーショーにゲスト出演して頂いたのが、最後の共演となってしまった。

 

 2016年、桜花が花開き始めた3月のある日、荏原病院に入院していたおっかさんを見舞った。病室のカーテン越しに「おっかさん、真人です、来ましたよ!」と声を掛けると返って来た言葉が「お前か、何で来たんだよ!」戸川昌子独特のテレ廻しの言葉、心とはまったく本意でない言葉を云う、「あゝそう、じゃ帰るよ!」「・・・だめ!帰っちゃだめ!!」「・・・・・」「ちょっと、そこの待合室でまってて。」5分か10分で失礼するつもりだったが、浴衣の上に一枚羽織り出て来た戸川さん、その時は意外と元気そうだった。走りのイチゴを手みやげで渡すと大喜び、いつものまさこ節「まさと、お茶、買って来い!」「何処にあるんですか?」「そこの自動販売機だよ、温ったかいやつなっ!」私にはイバルこと威張る事。帰ると云うと引き止められ、一時間半も色々と話し込んでしまった。病室に戻り、カーテンを開くと、壁に可愛いお孫さんの大きな笑顔の写真が貼ってあった。

 そして桜花が葉桜に変わった4月、義叔父の静岡の病院で静かに眠りについた。時に2016年4月26日享年85歳、大好きなおっかさん大先輩、戸川昌子さん、大変お世話になりました。有難うございました。 完