なかにし礼さんの想い出

【なかにし礼の想い出】その1(2021/1)


 ネオン煌く繁華街から少し外れた赤坂1丁目、静かな区域のマンションの一角に、新しくオープンしたシャンソニエ「らら」は在った。ある夜のライブ、私が唄っている所へ、三人の客が入って来た。客席に落ちついたお客様を見ると、その中の一人が、なかにし礼さんだった。

 「おっ?!礼さんがいらっしゃって下さったので、曲目変更!なかにし礼さんの訳した曲を歌わせて頂ます!!」

 私が一曲唄い終ると、「ほらみろ!僕は書いているんだ!!」と連れの二人に件のなかにし礼さんが、少し声を張り説明している。その時歌わせて頂いたのは、

 

 確か「旅芸人のバラード」曲Gベコー 

   「ル・グロ・リュリュ(Le Glo Lulu)」(ピエロのリュリュ)曲パテルソン

   「ラ・ボエム」(C・アズナブール)

の三曲ではなかったかと思う。

 

唄い終るとなかにしさんは、にこにこと笑みをこぼし、小生の拙芸に礼を云って下さった。

 

なかにし礼さんとの出会い:会話をさせて頂くようになったきっかけは、当時銀座6丁目にシャンソン歌手の日高ナミさんがオープンした「マ・ヴィ(私の人生)」という、まるでフランスのレンガ造りのワイン倉のようなシャレたシャンソニエであった。その開店からお声を掛けて頂き、週二日程出演させて頂いていた。(つづく)

【なかにし礼の想い出】その2+資料


 1970年代前半は、シャンソンブーム到来!シャンソニエがどの街、この街あっちこっちとオープン!歌い始めてまだ3年目の

新人ヒヨッコ歌手の小生も、師である有馬泉氏のご紹介等も有り、それ等のライブに出演、歌い始めていた。

 

銀座6丁目泰明小学校の前の路地を入った所には「マ・ヴィ」新宿1丁目靖国通り沿いに面したビルの地下には「シャンパーニュ」そして吉祥寺北口マーケットを抜けるとビルの二階には「ベル・エポック」等、その他いろいろな店が誕生して行った。

 

 「マ・ヴィ」は、マダムの日高ナミさんの美貌と歌の魅力、作家の柴錬こと柴田錬三郎さんのお力で、文士・役者・歌手・

政財界その他色々の世界のお客様が来店。五木寛之・水上勉・田辺茂一・財津一郎・西郷輝彦・映画監督の山本耕一氏等、

あらゆるジャンルのお客様が夜毎集い、文化の高揚、バブル期と合いまって、酒と煙りと歌に酔い、50名程のキャパシティの

店が、一晩3回転する程の盛況だった。

 

その数々の客の中に、なかにし礼さんが居て、日高ナミさんにも訳詞・作詞を提供しており、小生の拙芸を少し?!気に入って下さり、出演日には、時々おはこび頂き、お声を掛けて下さり、お話させて頂くようになったわけだ。(つづく)

 

【なかにし礼さんの想い出】その3


「恋心」

 もう40年程前になるだろうか・・・・・!?

小生のディナーショーのゲストに菅原洋一さんをお迎えし開催した事があった。ゲストコーナーで菅原さんが「恋心」を歌われた。それまでの“恋心”は「恋は不思議ね、消えたはずの、灰の中から何故に燃える・・・」と永田文夫さんの訳、岸洋子さんの歌唱で一般的に広がり、知られていたのが、菅原さんが歌った「無駄なことさ恋なんて、深い悲しみを作るだけさ・・・」と男性の訳で歌われた歌詞、僕は初めて拝聴・・・。

 

 ショーが終わった後、菅原さんに「菅原さんが今日歌われた“恋心”は、どなたの訳ですか?」と伺った所、「あー、なかにし礼さんの訳ですよ。」「女性の訳しか知らなかったので、なかにし礼さんの訳詞で、そのうち歌わせて頂いていいですか?」と尋ねると「アゝ、どうぞ!」とあのにこにこと柔和な顔で(因みにこの笑顔のニックネームが三日前のハンバーグと云われていた)あっさりとOKを頂いた。

 

 有馬師にそのディナーショーの報告方々“恋心”の話をした所、「あゝ僕その訳持っているよ」と言われすぐその訳で稽古を

始めた。「・・・無駄なことさ、愛するなんて、哀れなピエロの独り芝居・・・」このフレーズが詞がいいんだよな~~。

失恋の曲だが行間と行間に男と女の恋愛・生活・セックス、どんな部屋でどんな景色、二人の考え方の違いや、後悔、理解、そして人生勉強等、まるで礼さん御自身の実生活が露出されているような歌詞。

 

 訳詞家の方々は、フランス語の詞に添った訳ばかりでなく、本人の生きざまも、そこには不断にちりばめられているのだろう。「・・・真実の恋の愛の重さを 君は僕に教えれてくれた」なかにし礼さん訳    (つづく)

 

【なかにし礼の想い出】その4


「ラ・ボエーム」

 銀座通り、7丁目、斜向いには資生堂、そこにシャンソンの殿堂“銀巴里”は在った。(現在は石碑が残っているだけだが)

 

 小生も17年間出演、お世話になったが、今から30年前、その殿堂のシャンソニヱは、その文化36年の歴史を閉じた。

 

 ライブやコンサートの舞台上で、なかにし礼作品を歌わせて頂く前に、学生時代に礼さんが銀巴里に通い、訳詞を歌手に

提供していたエピソード等を話すのだが、今回は、その一つ「ラ・ボエーム」の事を書いてみたい。

 

 なかにし礼著「なかにし礼の作詞作法」をここから少し引用する。

 

 友人の武富さんの下宿に、ころがり込んでいた件の主人公、いつも二人は腹をすかせていた。

 

 T「腹へった。何か訳詞の注文、来てないのか?」

 N「あるよ、だけどお前いつも俺に歌を書くな書くなと云ってるじゃないか」

 T「腹がへったときは別だ!」

 

 こんな会話のあとに、主人公、机に向かい、詞を書き始めた。

「・・・・空いた腹をかかえながら 虹のおとずれ、夢見ていた 仲間たちと キャフェの隅で ボードレエルやヴェルレェヌの詩を読んでいた 希にあふれた君とぼくの二十歳の頃 ラ・ボエーム ラ・ボエーム・・・・」

書いたばかりの歌の原稿を胸ポケットに入れ、雨の銀座通りを小走りに急ぐ、そして銀巴里の階段を下りて行く・・・。

 

「モンマルトルのアパルトマンの 窓辺に開く リラの花よ 愛の部屋で 僕はいつも 絵を描いていた 愛しいひと 君をモデルに 愛し合った君と僕の二十歳の頃 ラ・ボエーム ラ・ボエーム・・・・」訳 なかにし礼 つづく 

【なかにし礼さんの想い出】その5


(銀巴里)

〔入口から薄暗い螺旋階段を降りて行くと、パリのピギャールに今でも存在、営業しているキャバレー「ムーラン・ルージュ」のようなムードのビロード生地の壁とステージ。客席は病院で使われているような長椅子が待合室のようにステージに向かって並んでいる、銀巴里クヮルテット(4リズム、Pf、Gut、Bass、Dr)そして、その日の出演者が曜日によって3~4名。楽屋は舞台に向かって右側、狭く細長く、カガミ張り〕

 

 銀巴里の中へ入ると、歌い終わった仲雅子(マサコ)が譜面の整理をしていた。「ラ・ボエーム」の訳詞を依頼した木村正昭が(著書の中では山本正昭となっているが、これは多分礼さんの記憶違い)こちらに向かって来る。

 

「今日、お財布忘れて来ちゃったの・・・・。」困ったな、板橋の下宿で腹すかせた友人が待っている・・・それに帰る電車賃がないのだ・・・。その時、仲雅子が二人の中をすっかり読み取っていたのだろう、彼女がポイとお札を二、三枚テーブルの上に置いて「木村さん、貸してあげる、ね。これで・・・」木村正昭は僕に何故か二千円のお金を払ってくれた。(この頃礼さんは一曲千円で書いていたという、それは今から50年以上前の話である。何故二千円だったかは後で記す)

 

 銀巴里を出ると雨はあがっていた。板橋駅前の寿司屋で上を三人前、折に包んでもらい下宿に着いた頃、TVで深夜劇場が始まったところで「武富、お待ちどう、帰ったぜ。」「かたじけない・・・・。」武富はガバッと起き上がると、しゃにむにパクつき始めた。武富は二人前きれいにたいらげると、タバコに火をつけた・・・。

 

「或る日のこと 君とぼくの愛の街角 訪ねてみた リラも枯れて・・・・・ラ・ボエーム ラ・ボエーム いちまつの愛よ」訳 なかにし礼 つづく

 

【なかにし礼さんの想い出】その6


 私は19才の頃に、大師匠 浜口庫之助に師事し、作詞、作曲、歌唱の修業を始めたのだが、浜庫の教えは、まず基本だと、来る日も来る日も浜庫流発声法、リズム法、作詞、作曲は盗みなさいという勉強法。大師匠が書き上げた作品を読み歌いながら作詞、曲を覚えて行った。

 

 ある日のライブでなかにし礼さんが私に「作詞も勉強(や)っているんだって?奇を衒わず誰もが使っていない言葉を入れるといいよ。」とポツリと一言云って下さった。その時は左程気にも留めなかったが、後にすごい一言を云って頂いたと大変恐縮した。

 

 それまでの私は一搬に歌われている歌謡曲の詞を読み書き写したりしていたが、そう云えば浜庫さんの詞の中にも「涙君さよなら」の涙君なんて誰も使っていなかったし、礼さんの「知りたくないの」の歌頭に出て来る「あなたの過去など・・・」の・・・過去・・・や「今日でお別れ」の「あなたの背広や身のまわりに・・・ネクタイ直させてね・・・」等、日常生活の中では使われていても、歌の歌詞としては、どれも使われていない言葉、これ等はきっとシャンンソンの訳詞をやっていた事も歌謡詞の中に組み込まれていたのではないだろうか。流石!両巨匠!!

 

 なかにし礼さんが、銀巴里出演歌手に訳詞を提供始めたのが19才、そして25才頃までは、とに角訳詞を書きまくっていた。それ以降は歌謡詞の世界に入って行ったのでシャンンソン訳詞のスピードはダウンして行ったが、シャンソニヱにはフラッと遊びに来てくれていた。

 

 前号で書いた「ラ・ボエーム」訳詞料二千円の件はタネを明かしておこう。何故、木村さんが一曲千円の訳詞料を二千円払ったのか? 師の有馬泉が木村さんに千円渡し「僕も“ラ・ボエーム”を歌いたい」と云って渡してあったのだそうだ!

 

 「君の胸や 腰の線を 描いては消して・・・愛しあえば感じないさ 冬の寒さ ラ・ボエーム ラ・ボエーム 

 青春の歌よ・・・」訳 なかにし礼  つづく

 

【なかにし礼さんの想い出】その7


「商売やめた」「ヴィアン・ムッシュ」

 

 この二曲とも、なかにし礼作詞、作曲の歌だが、この作品を歌って客を唸らせたのは「マ・ヴィ」の日高ナミ、「青い部屋」の戸川昌子。この二人が東西の横綱、双壁、圧巻だった。

 

「青い部屋」が渋谷2丁目交差点角に移ってからオーナーであり、歌手、作家の戸川昌子さんに声を掛けられ出演、そして

クローズまで長年お世話になったが、礼さんもこの店が好きで、戸川昌子の歌が好きで、よく見えてくれていた。

 

「商売やめた」「ヴィアン・ムッシュ」どちらも夜の街に立つ女の歌だが、日高ナミは可愛いい小悪魔のように男に甘えて、「あんただったら、ただでもいいわ」なんて云いながら金をかっさらう!  戸川昌子は大姉御「私にまかせてりゃいいの

よ~!さあ、服を脱ぎな!!」と男をゴウチン?させて金をふんだくる。

 

 この二人の先輩の歌を拝聴すると、礼さんの「歌は表ばかりじゃないよ、裏もあるんだよ」というメッセージがドカーンと大砲をぶち込まれたように、胸に、心の中に入って来て、気が付けば、自分がすっかり客になっていたりする。

 

 私のレパートリーの中でも「旅芸人のバラード」「ル・グロ・リュリュ」「メケメケ」そして礼さんの訳ではないが、J・

ブレルの「ブルジョワ」 P・ミスラキの「電話」等、ちょっと語り風、芝居ががった歌を、赤ワインをゆらしながら気元

良く聞いてくれていた。

 

  「船が港に ついた夜は 街に立つ女には かき入れ時なの ミンクを襟に ふわりと巻いて タバコを持つ手で 

  男を誘う・・・」作詞 なかにし礼  つづく

 

 

【なかにし礼さんの想い出】その8


 世の中、音楽産業がレコードからCDなる物に移り変わって行った時、私の1枚目のCDアルバム「人生はモデラート」をリリースした。それは全14曲中、前半7曲が「小さなシャンソンの店片隅で」タイトルにした「人生はモデラート」等のオリジナル曲、後半7曲がシャンンソン。その14曲目に「愛の讃歌」を入れた。(現在は8種類のアルバムを出させて頂いているが、すべて前半はオリジナル、後半はシャンソン&カンツォーネというスタイルだ。)

 

 その頃、すでに日本の歌謡曲の作詞で日本レコード大賞や作詞大賞等いくつも授賞し、君臨!シャンンソンから少しづつ離れて行った、なかにし礼さんに、いそいそと自分の初のCDアルバムに手紙を添えて送った。

 

「なかにし礼様 御無沙汰致しております、僕の初CDを同封いたしました。礼さんの訳詞の「愛の讃歌」をこのCDの14曲目に〆として入れさせて頂きました。御笑聴頂けましたら幸いです。」と確かこのような文章で手紙を添えて送った。

 

数日後「えっ〜〜〜〜〜〜?!」礼さんから一冊の著書と手紙が届いた。全文を紹介する!!(コラムその2の資料に掲載)

 

 井関真人様

    CDお送り下さり有難うございました。小生の訳詩リサイタルいらしていただけなくて残念でした。

    四月二十六日にレコードが出ます。それを聞いてみて下さい。「さらば銀巴里」お送りします。

    参考になれば幸いです。

   「愛の讃歌」いつの間にあのようになったのかわかりません、よろしかったら、

    この本にのっている訳詞で歌って頂きたいと思います。1991.3.15 なかにし礼  

 

 鳴呼!大失態をしてしまった。  つづく

 

 

【なかにし礼さんの想い出】その9


 大失態! 有馬師より「愛の讃歌」を譲り頂いた時に、その頃、男性訳が無く、人から人へ渡る中で、すでに女性訳から男性訳に多少書き替えられていた事を確認せず、歌いCDにまでしてしまった。

 

 すぐ手紙を書き、大変な失礼を詫びた。暫くして礼さんより再びお手紙と「さらば銀巴里」の訳詞、作詩集が届き、またまた恐縮。申し訳けないやら、反面、嬉しいやら! この手紙と著書は、私の本棚の真ん中に、いつも納められている。

 

 礼さん、本当にごめんなさい、今でも思い出すと身が縮込まり穴があったら入りたい程、心が痛みます。ご容赦下さい。

 

 渋谷パルコ劇場で、なかにし礼さんのシャンンソンの最後の〆のリサイタル「さらば銀巴里」1981年2月16日~20日 日毎ゲストを替えて本人も歌手として歌い大盛況のうちに幕を降ろした舞台。小生 その時、ちょうど旅公演が一週間入っており拝見出来なかったのが心残り。

 

 なかにし礼作詞、浜口庫之助作曲、島倉千代子歌「愛のさざ波」 礼さん作詞、曲の「兵士の別れ」や「今日でお別れ」等、今でもステージで歌わせて頂いている。

 

 今、礼さんは、日高ナミ、戸川昌子、芦野ひろし、深緑夏代、淡谷のり子、宇井あきら、浜口庫之助、石原裕次郎さん他多くの皆さんと、天の上で音楽談議などしているのだろうか。

 

 礼さん、僕も拙芸51年目になります、もう少し唄っていたいと思います。

 

 「なかにし礼さんの想い出」まだまだ色々書き足りない部分もあるが、小生の失敗談で締め括る事にする。

 

  なかにし礼 2020年12月 逝去 享年 82歳  合掌